ここが変だよ! 保育園のパラドックス

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保育園が家庭の役割を代替えすればするほど、 家庭は本来持たなくてはならない力を失っていく。

はじめに

保育の世界には凄まじい変革の嵐が吹き荒れている。嵐と書いたのは、この変革が社会全体を混乱におとしめる危険性が極めて高いと感じているからである。とりわけ、近視眼的な視野で描かれた行政の福祉ビジョンが、その嵐の目になることを考えると、これは人災以外の何ものでもないと言わざるを得ない。
実際、行政が繰り出す施策にはコストの削減やサービスの向上といった経済効率や市場主義だけにとらわれた内容しか描かれていない。問題は「子ども」であり「家庭」である。
早晩、行政が繰り出す施策は、子ども問題で根本から簡単にひっくり返される。目先のことのみに囚われた対策が天に向かって吐いた唾のごとく己の顔に落ちてくる。子どもの問題はそういった性質を持っているのである。社会の根幹を構成する家庭や、社会の未来である子どもを軽視した施策には、根本的な解決策は見いだせない。
私は図表「保育園のパラドックス」で、行政の施策の問題点を明らかにすることを試みた。つまり、保育園が孕んだ問題が、子ども問題として広がり、結果的には社会や企業に大きな悪循環をもたらすことを伝えたいと思ったのである。
子ども問題の根本は0・1歳児における親と子の関わりに集約される といったら言い過ぎであろうか。もちろんそれだけで全てが決定されるわけではないが、この時期の親子関係が社会の基礎になることや、子どもの発達を考えると非常に重要な時期であることは否定できない。
昨今のマスメディアを賑わせている子ども問題の根は学齢期以前に存在している。「三つ子の魂、百までも」という昔からの格言に示されているとおりである。図の右下に描かれている「心の中の穴(不安)」がキーワードになる。
その期間の保育を「子どもは社会のもの」「三歳児神話は神話に過ぎない」などとうそぶき、女性を戦略化したいがために、0・1歳保育や便利な保育としての駅型保育、長時間保育などを更に拡大し、親と子の関係を離ればなれにさせさせてしまう行政の施策は根本から間違っている。
必要な人に手をさしのべないということではない。特別な保育対策を一般化したり、必要の無い人にまで、わざわざ需要を喚起させてしまうような施策の展開に問題があるのである。
こうした愚行を一日も早くやめさせ、親が仕事をしながらも、子育ての楽しみを味わえるような社会システムを考えていかなければならない。世界では、既にそういった取り組みが実践されている。
保育園は上手にその機能を働かせれば、有効な役割を果たすことができる。家庭の代替えにはなれないが、集団として子どもたちを保育・教育し、同時に親の人生設計の応援をしながら、親と子の絆を強め、親が親として育つ機会を提供できる素晴らしい機能を持っている。そこを活用すべきである。
  その保育園を単なる便利屋やコンビニエンス・ストアにしてはいけないのである。
~保育園のパラドックス(図の説明)~
 

第一章 子育ての外注化

【世界】

イギリスのサッチャー首相やアメリカのレーガン大統領の時代から始まったビッグバンやグローバリズムは大きく世界の経済機構を変えた。それまで日の昇る国として世界の羨望の的であった日本は新しい世界経済システムに翻弄され今や青息吐息である。
ヘッジファンドに代表される邪悪な経済システムは日本をはじめ、タイ、インドネシア、韓国など一国の存亡がかかるほどの危機をもたらした。日本は世界のシステムを受け入れなければ生き残れないらしい。目の眩むような激しい変化が日本を覆い、ものすごい勢いで社会が変貌している。

【産業】

グローバリズムや市場主義の強い影響を受けて、日本の産業社会はそれまでの年功序列をうち捨て能力主義を取り入れる。家族の支えで長時間残業を可能にしていた終身雇用制度は崩壊する兆しを見せている。
産業は雇用機会均等法を都合良く利用した。表面的には女性の自立願望を受け入れた形を取りながら、実は女性を男性並に働かせるといった戦略に動いた。フェミニストたちも女性の過労死が起こるといった状況を目の当たりにして、産業側が展開した戦略の狡猾さに驚いているのではないだろうか。「自分たちの望んだ仕事の仕方は決してこのようなものではなかった」と上野千鶴子氏はあるセミナーで述懐した。
しかし産業とても世界と対抗していくには、なりふり構っていられないのかもしれない。死ぬほどの努力を重ねることしか解決の方向が見いだせないのであろうか。悲しい日本人の性としか言いようがない。
世は女性の時代である。優秀な女性を活用しない手はない。その結果、産業は子どもに対する対応を保育園にシフトさせる方向に動く。勢い産業は行政に向けて保育園の機能を拡大するよう要請する。

【フェミニズム】

1960年代に端を発したウーマン・リブは女性の解放を叫び世界に大きな影響を与えてきた。女性の華々しい活躍の影には「この革命は少数の有能で高収入の女性と多数の能力の無い離婚した女性を生んだ」(アメリカABC放送リポート)と手厳しい批判もある。
「男女平等を妨げているのは女性に経済力がないからだ、したがって、女性は働いて経済力をつけねばならない」「働くことは何にもまして価値のあることだ」「大切なのは自立だ」「働くことは自立のために必要だからだ」というように「家に居るよりも外で働くことに価値がある」と思わせる運動を展開してきた。
フェミニストたちの主張を貫くには必ず問題となるのが子育てだが、「母親が働くことと子どもの発達には相関は認められない」とされた大阪リポート(精神科医・原田正文氏)や「子どもとの関わりは量より質である」とした「量より質」論を展開し、子育てよりも仕事を続けたいと思う女性を勇気づけている。
テレビや新聞社などのマスコミにおいても女性の活用は必定で、これに反論することは自社の成り立ちをも揺るがすような状況に陥る。
世論は子育てを社会化させ、保育園の機能を拡大する方向に動く。

【少子化問題】

人口問題審議会は現在の少子化傾向がどのような問題をもたらすかを議論してきた。少子化によって働く人(システムを支える人)と年金や介護などで支えられる人の数の差が大きくクローズアップされ、近い将来に社会的システムが維持できなくなるであろうという予想を出した。
これにあわてた厚生省は出生率を上げるべく少子化対策を一気に進める。日本の女性の特徴的なM型の就労曲線を欧米並にすることで労働力の不足を補い、同時に制度・財政的な問題をも解決しようと考えたのである。
女性の就労を促進させるには問題となるのが子育てである。少子化問題審議会では「子どもは社会のもの」であると位置づけ、一部の文化人類学者の説や昔の大家族を例にあげながら、さまざまな子育て支援を保育園が果たすべきであると結論づけた。いわゆる子育ての外注化を促進させる。
椋野美智子氏(当時・厚生省白書担当室長)は平成10年度厚生白書において「3歳児神話は神話にすぎない」として日本女性に一般的に浸透している子育ての考えを打ち壊そうと試みた。「3歳までは自分の手で育てたい」とする日本の母親たちの思いが、M型の就労曲線を欧米並に変革させるのには大きな弊害であると考えたのである。
この椋野氏の取り組みに対する矛盾や問題点は「げ・ん・き」58・59号(ここが変だよ 3歳児神話論争)で指摘済みであるが、「母性の復権」林道義著(中公親書)や「サイレントベイビー」小児科柳澤医院・院長 柳澤慧著(ザ・マサダ)、「育児室からの亡霊」ロビン・カー・モース/メレディス・S・ワイリー著(毎日新聞社)を併読いただければ平成10年度厚生白書の問題点がさらに深く理解できる。
 
行政の力は強い。これらの行政担当者の思惑は一気に施策として展開される。社会福祉基礎構造改革やそれに支えられた児童福祉法の改革は、「働き方」や「子育て問題」、更に「人々の生き方や暮らし」などを一気に変革してしまうだろう。
これは最近になって見えてきたことだが、本当にものすごい変革である。このような日本の国民・市民社会に多大な影響を与える変革を一部の人たちの考えで行っていいのか。私は大きな憤りを感じているのである。
マスコミですら同じ穴の狢である。自社の女性の活用と子育て問題の狭間で四苦八苦している。保育園が機能を拡大し、サービス競争を展開すれば問題が解決されると思っているのだろう。

■まとめ

以上、世界経済システムの変革による産業構造の変化、フェミニズム、少子高齢化対策などが、大きなエネルギーをもって行政に対し要請する。キーワードは「子育ての外注化」である。
 

第二章 行政

第一章の子育ての外注化の要請を受け、保育行政担当者は具体的な施策を矢継ぎ早に展開している。彼らにとって施策を具体的に実施できる機構としての保育園は非常に都合の良い存在である。補助金との交換取引で言うことを簡単に聞かせる構造が作り上げられている。
少子化対策にはいろいろな考えが述べられているが、保育園に対する施策以外はどれも努力目標の域を出ていない。幼い子どもを育てている母親や父親の労働時間の短縮などは、かけ声だけで、法律で義務づけられるわけではない。女性が請求できる育児休業とて、まだ50%に満たないのが現状だ。男性の場合はたった2%もいかない。
現実に厳しい経済状況を考えると、企業はそう簡単に行政の方針を受け入れていくわけにはいかない。

受け皿は保育園

そうなると、当然受け皿は保育園になる。当面は保育園が受け皿となれば問題は解決の方向に向かうように思える。行政の担当者として、具体的にその施策を実施し、行政はこのように努力していますとの姿勢を表明しなくてはならない。
平成11年11月に出された東京都児童環境づくり推進協議会の最終報告では「子どもたちが輝くまち東京」「子どもは未来の担い手、子育てを家庭と社会で」とし、子どもの立場から考えられた重要な意見が報告されたにもかかわらず、同年12月に出された「福祉改革ビジョン」では「働く母親のための保育施策」だけが並び、「子どもの立場から考えられた施策」は全くなくなっている。
それでいて、「子どもが健やかに育つ社会を築く」(広報・東京都2001年元旦号)と題して無邪気に働く母親のための保育施策のみを重点においた戦略を明記している。しかも「心の東京革命を社会全体の運動として展開する」とある。子どもの実状を知らない浅はかさである。福祉局の方針と「心の東京革命」には明白な矛盾があるにもかかわらず、その矛盾に気づいていない様には呆れてものが言えない。その鈍感さというか、総合的な判断能力の欠如は、石原都知事が「渇!」と叫ばなければ気がつかないのかと思えるほどである。
しかし、その石原都知事さえ、「駅型保育所」を推進したり、「心の東京革命」は「心を打つディテールが一つも無い。役人が書いた文章そのものなんだな。」(中央公論2000年10月号・対談 先生より親の言うことを聞け)などと述べているくらいの認識なのだから、解決にはほど遠いのだろう。
さて、現在の行政の主眼は保育園の役割拡大一色に染められている。延長保育・24時間保育・病後時保育・病児保育・一時預かり保育・日祭日保育・年末年始保育・子育て相談・ファミリーサポートセンター・虐待児への対応など特別保育事業が目白押しである。それらの特別保育事業を一般化しようと更に戦略を拡大している。
一体、子どもたちを13時間(東京都が全ての保育園に推進したい延長保育の時間)も保育園に預けさせておいたら、家庭の生活はどうなってしまうのだろう。長時間保育の問題は目白短期大学教授・中野由美子先生のリポート「共働き夫婦の子育てをどう支援するか」 に詳しく述べられているので併読をお薦めする。
一日が24時間として、延長保育を終えた親子は30分で家に帰れるとして残りは10時間30分。子どもは平均して10時間くらいの睡眠は必要だから、残りは30分程度。こんな時間で親子の関わりができるのだろうか。いくら子育ては「量より質」と唱えたとしても、最低の量が確保されなくては、質を問うことさえできない。
犬だって誰になつくかといえば、それは食事を与えてくれる人と散歩に連れていってくれる人である。人間とて同じである。厚生省の次の子育てキャンペーンとして「子どもと食事もせず、遊んでもやれない親は親とは呼ばない」を採用してはいただけないだろうか。
現実には保育行政担当者は巧妙である。効率主義に洗脳された担当者はコスト削減を目指し、保育の世界には競争原理を導入しようと考える。折しも法人税の激減から財政の立て直しが最優先される課題である。コストの削減とサービスの向上を競争によってうち立てようと規制緩和をし、社会福祉法人以外の一般の民間会社も保育の世界に参入できるようにした。名目は「利用者の選択を可能にする」ということである。
これらの施策を進めるにあたって、行政が打ち出した殺し文句は「選ばれる保育所」である。「これからは競争が厳しくなり、利用者が選択する時代になります。」「真に利用者の立場に立たなくては生き残れませんよ」という企業の論理をそのまま展開してきた。
利用者は子どもではなく親である。保育指針には「子どもの最善の利益」と謳い上げながら、実は子どものことを何ひとつ考えていないところに大きな誤りがあるのだが、総合的判断能力が備わっていないので自己矛盾を起こしていないかのようだ。いや上から命ぜられたことを疑いもせずに実行する体質である。矛盾があるかどうかなどとは考えないのだと思う。
0歳や1歳の子どもたちを持つ親が、子育てより働くことを望むように推進し、いままで無かった0・1歳児の保育需要を意図的に作り上げ、待機児が全国で4万人以上もいると宣伝し、施策の推進を図っている。
待機時解消の対策は大きな問題を含んでいる。一度この問題が御旗のように掲げられると、それまで保育園に厳しく守らせてきた最低基準を行政自身がぶち壊してしまうという体たらくぶりである。定員を2割もオーバーして預かる保育施設では子どもたちの処遇は相当劣悪化している。この問題をどうして許しておけるのか。これは保育園だけの問題ではない。国民的問題である。子どもを預ける親こそ行政に対する怒りを表明しなくてはならないのではないだろうか。

まとめ

かくして、行政は保育園を使って施策を展開する。伏線にしかれた「選ばれる保育園」「民間の参入」作戦は効果的に働き、それまで動きの鈍かった公立保育園までも一気に流れを変えさせらる。
保育園は問題解決の受け皿になることは間違いない。保育園が受け皿になってくれれば、当面の問題は解決するように思える。保育行政担当者はひと安堵である。事実、事態は急速に彼らの思うとおりに進んでいる。
ところが、事態は次章で述べる子どもの問題ですべてがひっくり返されるのである。近視眼的な考えでしか問題を捉えられない悲しさが社会を混乱におとしめる。いや行政だけではない。政治家や学識経験者でさえも図示した左側の経済を中心にした非常に小さいサイクルしか眼中に入っていないのではないかと思える。
問題はもっと深刻なのである。子育ての問題は深刻な社会問題なのである。日本の将来がかかっているのである。それに気づいたときに始めて保育園の役割の大切さがクローズアップされてくるのだが、子ども問題を未だに狭い範囲でしか捉えられないところに日本の為政者や保育行政担当者の現状認識の甘さがある。
 

第三章  親子の関係性の喪失

(子どもの心が満たされない)

豊かさのパラドックス

戦後、アメリカの圧倒的な豊かさにあこがれた日本は、経済的な豊かさを求めて努力を重ねていった。教育熱心な日本人の特性とその努力が現在の日本の繁栄をもたらしていることは間違いない。儒教的な倫理観と勤勉な性質が日本のどの家庭にも満ちあふれていたと思う。
これがいつから壊れていったのか。豊かさを求めたが故の必然なのか。先進社会の共通問題としての家庭の崩壊、子どもたちの問題は深刻である。
モノに溢れた日本が、間違った個人主義がもたらした混乱は日本を救い難い状況にしている。誰しもが豊かさを求めた。利便性を求めた。それが善であった。スーパーがコンビニがそして産業全体が自社の商品を売るためにサービス競争をすすめた。マスメディアもそれに荷担した。結果としてそれが日本人から忍耐力を奪ったのか。
それまでの規範に息苦しさを感じ、新しい考え方を一種のあこがれをもって迎えた。それまでの規範を打ち壊したのが団塊の世代であろうか。多様化といった一面では良さそうな捉え方も、視点を変えれば、規範の喪失を意味する。日本の社会を支えていた規範がどんどん失われていった。
苦労が嫌。面倒なことが嫌い。そうした子どもたちが大人になり、親になった現在、家庭から子育てに必要な基本的な忍耐力が失われた。規範はなくなり、家庭の教育力が極端に弱化した。

地域社会の共同体としての 関連性が薄くなった

最初は地域との関わりが薄くなっていったのだろう。かつては子どもが悪いことをしたら叱ってくれる大人がどこにでもいた。地域での関わりが薄くなっていったから、他人の子に関わろうとする大人が減った。こうして地域社会は徐々に地域共同体としての関係性を失っていった。
昔は子どもだけの世界があった。それが、子供会だの、少年野球だの、子どもの世界に大人が介在し、結果的に子どもの世界を消失させた。受験勉強や個電(一人で遊べる個人用の電化製品)も拍車をかけた。40年ほど前には子どもが群をなして遊んでいたはずである。モノが無くても、みな工夫して遊んだ。みんな体を使って遊んだ。そしてその集団の遊びが社会における人と人との付き合い方やトラブルの解消方法など、人間関係を作り上げるための大切な事を教えてくれた。いかに大きいものを失ったかは、今の子どもたちの問題を見れば一目瞭然である。

食が貧しくなった

家庭ではまず食が貧しくなった。働く母親の増大で家庭の夕食が変わった。午後6時頃のデパートの地下の食品売場の混雑が事実を示している。家族のそれぞれの生活がバラバラになり、夕方に家族がそろわなくなった。
一九九九年に女子栄養大学・大学院教授 足立己幸先生とNHK「子どもたちの食卓」プロジェクトが行った小学校5・6年生の児童を対象に調査した「子どもたちの食生態調査」は「知っていますか 子どもたちの食卓」としてまとめられ、大きな反響を呼んだ。 ジャーナリストの郡司和夫氏は中央公論2000年10月号で「17歳は何を食べてきたか」で青少年問題の影に心が荒れるような食生活の問題を指摘している。
親の教育力が失われ、愛が失われていった
子どもが家庭で果たす仕事が減った。便利になった家庭には子どもの仕事が要求されなくなったのである。父親も長時間残業で夜遅くにしか帰ってこない。かつて見られた夕飯時の父親の訓辞は日本の家庭の規律を表していた。家庭から道徳や規範を子どもに伝える能力が失われていった。
  分業化は世の中を発展させたが、逆に個人の能力を弱める結果を生んだ。自分でできることでも自分でせず、専門家に依頼しその代価を支払うようになった。子育ても例外ではなかった。結果として起こる「子育ての外注化」は家庭の教育力を極端に弱化した。親子の関係性が薄くなり、それがやがて子どもに対して無関心な親を増大させる。
世代が一巡し、自分を中心にしか考えられない親が増えた。自分の求める享楽に不都合な場合は、平気で子どもを殴る蹴るなどしてしまう。平成12年の一年間に自分の親に殺された子どもの数は何人になったのだろうか。愛が失われた。
さまざまな原因から精神的に障害を持った子ども、多動な子ども、社会的な関わりを持つことが非常に不得手な子ども、基本的な躾のできていない子どもたちが多数排出された。いわゆる困った子どもたちの出現である。そうした子どもたちが保育園に入園するようになったのである。
この子たちの親も既に大きな問題を持っている。子どもの時代から他人との関わりが上手にできない人たちが親になっている。親自身の心の中にも大きな穴を持っていて、いつも不安にさいなまれている。そのような人たちが親になってきているのである。子どもの変化も凄まじいが、それよりも親の変化の方が勝っているかもしれない。これは精神科医・原田正文氏の「大阪リポート」や教育研究所「虹」尾木直樹氏の報告「保育士からみた親の変化」(げ・ん・き62号に記載)でもあきらかである。

保育園(保育士の息切れ症候群)

これらの困った子供たちが保育園に入園してくる。2歳になったばかりだというのに、チック症のような症状が出る子。自由気ままに保育室を駆け回る子。気が向かなければ保育室から飛び出してしまう。制限を受けた経験がないのだろう。言葉が荒く、非常に攻撃的な子。中には「僕なんて死んでしまえばいいんだ!」などと言い放つ自暴自棄な子まで出現してきている。そんな子がクラスの半数を越えるとの報告もある。
親の状況も問題が多い。子どもの相談より、自分自身の相談を求める。自分を受け入れてくれる人・自分を認めてくれる人の存在が欲しいらしい。おかげで、子どもたちのお迎えの時間に、保育士を捕まえて何時間も話し込む例が多くなった。保育士の中には親の相談に真剣に対応している内に自分がその問題を背負い込んでしまい、憂鬱になってしまう例もでてくる。よくカウンセラーがそうなると聞いていたが、上手に依存されると、その依存に縛られてしまうケースまでもでてくる。
一方では、行政からの役割の増大がもたらされ、労働時間が増大し、いろいろな仕事が増える。それもそれぞれが専門知識を必要とされるような役割ばかりだ。長時間保育が子どもに良いわけはないと感じている保育士もたくさんいる。しかし、保育園がそういった問題の受け皿にならなかったら、親を結果的に追いつめてしまうことになる。そのことがわかっている保育士は現実を無視できない。
保育園経営者は経営のことを考えると、行政の推進するサービスを受入れ、拡大する方向へ向かう。 しかし、それらの具体的な問題を処理するのは保育士である。まじめに対応しようとする保育士ほど、息切れ状態を起こす。多数の息切れした保育士の排出が症候群として一つの群をなすまでになった。

問題は学校へと積み残される

さて、疲れた保育士は、問題をいっぱい抱えたまま退職の道を選ぶ。自分の能力の限度を超えた仕事に耐えかねて退職することになる。やらなければならない仕事が多すぎる。それに保育園で抱える問題が重すぎ、仕事に喜びが持てなくなる。子どもだけの問題ならまだ我慢できる。それが親の問題までも取り込まなければならないとなると、もう限界を超える。
経験豊かで能力のある保育士が退職した後は、新人を採用することになる。保育士養成学校の全ての学生がそうではない。しかし学ぶ意欲に乏しい人たちが増えているのは事実である。学校も少子化問題を抱え、運営基盤がぐらついてくると、いきおい基準を甘くせざるを得ない。
かくして、保育園には経験や能力の不足した保育士でいっぱいになる。保育園経営はそれでいいのかもしれない。安い人件費で採用できる保育士で採算はうまくいく。しかし、子どもたちや親への対応能力は総じて落ちていく。その結果、子どもの問題はそのまま小学校へと積み残されるのである。

まとめ

豊かな社会・便利な社会を追い求めた結果、日本人は大切な何かを失った。苦労することを避け、面倒なことを嫌ったために、子育てに必要な基本的な忍耐力を失ったのである。
地域社会の共同体としての関連性が失われ、家庭の基本をなす食の場がなくなっていった。躾をはじめとする、家庭で行われなければならない教育が消えていった。最近では子どもに対する愛までも危うい存在になった。
崩れた家庭から子どもたちが保育園にやってくる。気になる子の増大で、保育園の保育士は息切れ症候群を起こしている。子どもだけでは済まない。最近では親の問題までも引き受けなくてはならない状況だ。
問題は子どもの心の中にぽつんと空いた大きな穴である。この穴は親にしか埋めることができない。保育園の子どもたちに、養護施設の子どもたちと同じ様な心の状態が起こっているときく。
かくして、能力のある経験豊かな保育士は仕事に疲れ退職してしまう。まじめな保育士であればあるほど、真剣に悩み、自分の仕事に自信を失う。熟練保育士の退職を新任の保育士が埋める。ところが経験や実力が不足する。子ども問題に十分な対応ができない。結果として、子ども問題は学校へと積み残される。
 

第四章 心の中の穴

保育士の膝をいつも求めている子どもが増えた。学校の保健室に入り浸る子と根を同じくしている。先生にべたべたまつわりつくことで、満たされない心の中の穴を埋めようとしている。こういった現象は子どもたちに限らない。もしかすると、親である人たちにもこの「心の中の穴」はおおきく空いているのかもしれない。何だか、世の中全てに「不安症候群」のようなものが蔓延しているようだ。
誰しも、一人前の人間になるには、結構時間がかかる。昔は既に15歳で一人前の大人としての覚悟をきめたと聞く。ところが、最近では30歳を越えてもそういった覚悟が身に付かない人が増えてきた。
人間関係を作ることが不得手になり、他人との関係に不安を感じている人たちが多い。問題に立ち向かおうとせず、具合が悪くなると、すぐゲームをクリヤーするように人間関係を清算してしまう。そこには誠意を込めて自分の気持ちを説明したり、相手に理解してもらおうとする姿勢が欠けている。自分を認めてもらいたいと気持ちだけが強く、相手を理解しようとしない自己中心的な人が増大している。それらの問題の裏側に、自信が持てない自分がいる。
私の住んでいる地区には精神病院がたくさんあるが、そこには最近、子育てで自分の精神の拠り所を失い、入院してくる若い母親がたくさんいると聞いた。子どもを生んだだけで不安になり、精神のバランスを失うというのである。

自我の確立

その不安症候群の核になるものは、自我の確立が十分されていないということではないだろうか。精神科医の原田正文氏は思春期を迎えた青少年の外来患者を診ているうちに、親と子どもの関係性の薄さが大きな問題であると捉えるようになった。 父性の復権・母性の復権で世の中の流れに果敢に挑戦している林道義氏は「人間にとっていかに親子の関わりが大切か」「自立するためには生まれてからの母子の一体感が欠かせないこと」を説いている。
『 サイレント・ベビー』(クレスト社)の著者・柳沢彗氏は「私には、いじめ、不登校、非行、そして殺人という少年少女の抱える問題の背景にコミュニケーションの欠落、人間関係における基本的ノウハウの欠如があるように思えてならない」「この現象は乳幼児期からの発育史の結果なのである。」と述べている。
精神科医の佐々木正美氏も伝えている。「子どもは一番信頼できる人に依存し、反抗する。その依存と反抗を繰り返しながら、自分を作っていく」と。
子どもの発達診断では非常に重要な仕事をされている京都大学教授の田中昌人氏も、「自我の確立には自分を拠り所とする心の杖が必要で、その杖無くしては自立の基盤はできない。」と断じている。
さらに、毎日新聞社刊の「育児室からの亡霊」では生まれる前の九ヶ月と生まれてからの24ヶ月の親子の関わりが子どもたちの心の発達に非常に大きな影響を与えることを力説している。
どれしも、子どもの発達には「心の杖」つまり親子の安定した関係が重要であると説いている。
 
東京都の福祉局の政策では、子どもの心や脳の発達、そして人間が人間として生育するのに一番大切な生後24ヶ月の母子関係を0・1歳児保育でないがしろにしようとしているのである。私は長く乳児保育を実践してきたのであるが、ずっと疑問を持ち続けてきた。ここへきて、0・1歳児保育の問題性を改めて感じている。
  石原都知事は経済面しか目が届かないのであろうか。駅型保育所が何をもたらすかが想像できないのかもしれない。保育の問題が非常に重要であるということにまだ認識が足りないのだろう。

親が親として育たない

「子育ての外注化」により、「親子の関係性の喪失」がもたらされる。このことが結果として、自分の子どもの問題に真正面から立ち向かうことができない親を生むことになる。子どもが小さいうちはまだ何とかなると思っている。しかし問題は思春期に爆発する。乳幼児期に育くまれる原信頼とでもいえるような親子関係がなければ、とても思春期は乗り越えられない。子育ての外注化はここに大きな問題を含んでいるのである。
最近では、乳幼児が自分の親から虐待を受ける事件が続発している。親になるための基本的な忍耐力が育てられていない。保育園をとりまく悪循環は、すでに一巡している。
親子の関係性を失った家庭は寂しい。基準を失った家庭は漂流する。愛を失った家庭には暴力がはびこる。

まとめ

図の左側の中心にある「子育ての外注化」は右側の中心にある「親子の関係性の喪失」を招くのである。そして、その結果生まれるのが、子どもたちの「心の中に大きな穴があく」ことであり、その穴が子どもたちの「心の不安」を呼び、「子どもたちの心が満たされない状態」をもたらすのである。
経験や実力の不足している保育士では、子どもの心の中に空いた大きな穴は埋められない。子どもは心が満たされないまま小学校へと進むことになる。
子どもの問題の裏に心の穴がある。この穴が空かないようにするのは、親の役割なのである。保育園では代替えできない。
その親が、子育てや教育の大部分を外注してしまう。そのことが親自身の「子どもへの対応力」を失うといった結果を呼ぶ。問題について真正面から立ち向かう姿勢が育たない。 つまり、親が親として育たないのである。
親や家庭の役割は保育園や学校などといった社会システムでは代替えができない。私たちは、このことを肝に銘ずるべきである。
 
親子の関係性を失った家庭は寂しい。基準を失った家庭は漂流する。愛を失った家庭には暴力がはびこる。そういった家庭から、心の中に不安をいっぱい持った子どもたちが保育園に入園してくる。ある保育園では、五年前はクラスに一人か二人程度のいわゆる困った子の存在が、最近ではクラスの半数を超えるようになったと聞く。
保育士の意見に耳を傾けない親も多くなったらしい。自分の思いをそのまま保育園に要求してくる人が多くなっている。これが後述の悪循環(3)を引き起こし、保育園はいよいよパニック状態を起こすようになるのである。
 

第5章

学校崩壊 さて、保育園や幼稚園で積み残された問題はどうなるだろうか。まず、子どもたちの学力は落ちることは必死である。子どもたちは心の安定があるがゆえに、外界に興味を持つことができるようになる。
「広く〈外〉の世界について学ぶ力、学校の勉強に集中する力、自己以外の世界に幅広く興味をもつ力、これらはすべて、子どもが自分の注意を内的欲求、つまり基本的生存目的から外へ向けかえる自由をもっているかどうかにかかっている。
子どもにとって自分以外に信頼できる人間がひとりもいない時、学校へ行っても仲間と遊んでいても恐怖や怒りや悲しみの感情を強く抱いているとき、幼児体験からつねに警戒心を抱いていたり、空想の世界へ逃げ込んだりしている時、そんな時に子どもの学習は危機にさらされる。」『育児室からの亡霊』ロビン・カー・モース/メレディス・S・ワイリー著(毎日新聞社)
心が不安な子は何かを学ぶというような余裕が持てない。自分の拠り所を求めて、保健室に入り浸ったり、先生によりすがったりする。それがうまくいかなくなると不登校へと発展する。
仮に、子どもたちのグループのリーダーの心に穴が空いていたらどうなるだろう。そうしたリーダーが暴力的だったり、頭脳的だったりするとどうなるだろう。きっと子どもたちの世界は邪悪な心に征服されるに違いない。「生き地獄だ」との遺書を残して自殺した鹿川君などはそういった世界に身を置いていたのだろう。
子どもたちは成長に従って子どもたちだけの社会を作ろうとする。子どもたちは子どもたちの世界で認められなければ納得しない年齢になってくる。そこには親が介入できる幅は非常に少なくなってしまう。
このような状況が多くなると、学校は平穏を失う。それが学級崩壊をもたらし、学校崩壊へと進む。

悪循環1(産業のパラドックス)

学力が落ちた子どもたちは、そのまま社会へ出る。少し前、新人類なるものが会社に混乱をもたらしたことが話題になったが、現在では超人類の出現が話題になっている。これからは会社の教育部門はもっと大変だろう。何しろ基本的な学力や自制心・コミュニケーション能力が不足しているのだから。
一部の一流会社はそのような問題はすぐには起きないかもしれないが、日本の大部分を構成する中小企業では新規採用の社員の教育に四苦八苦するようになるだろう。それが、全国レベルの問題として起こるのである。 日本は全体的な教育レベルの高さで現在の経済的発展を維持してきた。画一的教育と批判される。しかし、実際は日本経済を維持する大切な部分を構成してきた。独創的であることは喜ばしいことだが、それは基本を獲得した上に成り立つ。何もないところには何も育たない。人間は知識を蓄え、その知識を集約して新しい道を開き発展してきた。その知識が子どもたちに伝えられなくなっているのだ。
やがて、日本の産業は競争力を失うことになる。当初、世界との競争力を確保するために実行してきた数々の戦略は人材不足のため、ことごとくひっくり返される。産業は自らがもたらした問題(子育ての外注化促進)での己の首を絞めることになるというのが私の論点である。「子育ての外注化」を中心にした小さいサイクルでは、問題が解決されるように思えたが、保育園を通した大きいサイクルでは、子ども問題による悪循環を生んでくるのである。
ひょっとしたら、日本の会社は日本人を採用しなくなるのではないだろうか。現在でも、雇用状況は二分されている。才能や技術のある人は不足し、単なる労働力だけを提供しようとする人は有り余っている。能力のない日本人を採用するより、質が高いインド人や中国人・韓国人など、外国人の労働者を採用するといった現象が現れてくることにちがいない。そうしなくては、日本の企業はやっていけなくなるだろう。
つまるところ、能力のない日本人は日本にいながら、末端の質の低い仕事にしかありつけない結果となる。うまみのある仕事は外国人が占領することになるのではないだろうか。

悪循環2(行政のパラドックス)

学校崩壊でもたらされる問題に青少年の犯罪の増大がある。これは説明するまでもないだろう。昨今の青少年の犯罪は凶悪化の一途をたどっている。アメリカでは教室の中で発砲事件が多発していると聞く。社会の治安維持コストが激増するはずである。
たった一人の殺人少年のためにどれだけのお金が費やされることだろうか。警察官・マスコミ・心理判定員・裁判官・少年院・教護院などの費用は半端な数字ではないはずだ。
アメリカでは全人口の150人に1人が刑務所のお世話になるとも聞く。こんな費用を犯罪を起こした少年のために費やすより、家庭や保育に関する費用に充当し、社会の基盤を安定させたほうがいいに決まっている。医療でも病気を治すより、予防に力を入れるようになっている。そんな自明の理が分からないはずはないと思うが、そうはならない現実がある。
結果として、行政は青少年の治安コストに莫大な費用をかけることになり、当初もくろんだコストの削減はもろくも崩れ、社会不安をもたらすことになる。これはアメリカでは実証済みなのだ。
悪循環3(親が親として育たない)
心の穴が開いた子どもたちはやがて親になる。社会は更に変化し、子育ての外注化は子どもとの関係を持てない親たちを多数排出することになる。親も親で不安なまま親になりそれが非常に特殊な家庭を作り、ますます社会を混乱させることだろう。
親が親になれない。精神的に不安定な子どもたちがやがて大人になり、親になる。 図表の悪循環はすでに一巡している。これは日本の社会にとって深刻な問題なのだ。

まとめ

図表の左中央の「子育ての外注化」を中心とした小さいサイクルは、保育園が受け皿になれば一見うまくいくように思えた。ところが、子ども問題で見事にこの構図はひっくりかえされる。
こんな単純な問題が分からないはずはない。日本の産業は世界でも有数なものである。常に長期的な視野に立ち、その活動を進めているはずだ。大企業や世界的なレベルで活動を進めている企業はとっくにそのことに気がついているだろう。
しかし、現実にはそのような企業は少ない。社会の潮流となってしまう中小弱小企業は生き残ることに精一杯で子ども問題などを考える余裕とゆとりがない。雇用している社員を目一杯働かせることで厳しい競争を生きているのだから無理もない。みんな疫病にかかったように、市場主義や競争主義にどっぷりつかってしまっている。ちょうどバブルの時に「何かおかしいと感じる」ことができずに、繁栄を謳歌し、その後の代償を払ってもまだその傷が癒えていない状況を生む。これが日本の社会の特徴なのかもしれない。
かくして世代間連鎖と共に悪循環が繰り返される。諫早湾の河口堰が有明海全体の生物を死滅させているかもしれないとのテレビリポートを見た。日本の行政や政治は結局、大きな犠牲が起こらなければ腰を上げないのか。保育園の問題は同種の問題を孕んでいる。死んでいくのは子どもの心だ。それが想像できないのであろう。
日本は文字通り「人間を幸福にしないシステム」を作っていくということになる。
 

第6章 保育園の役割

以上、「保育園のパラドックス」と題した図表を説明してきた。「保育園が家庭の役割を代替えすればするほど、家庭は本来もたなくてはならない機能を失っていく」という構図が何をもたらすかをご理解いただけただろうか。
親が親として育たなければ、社会は大きな子ども問題を抱えることになり、その子ども問題が社会に大きな悪循環をもたらす。
保育園はその役割の方向を変更しなくてはならない。小荷物預かりのような駅型保育所や延長保育などの親の利便性だけを中心においた施策をそのまま信じて展開すれば、やがて保育園は困った子、困った親でいっぱいになるはずである。
 
そうならない方法はある。親が保育園を信頼し、保育園が親を信頼し、親の状況により、親を支えながら、「親が親になるための保育園の役割」「親と子の絆を育てる保育園の活動」はある。
預ける親、預かる保育園はそれぞれ責任を持って子どもを育てる努力をする。子どもの成長は親に喜びを与えてくれる。その成長の喜びを保育園は子どもを通して親に伝えることができる。こんな崇高な仕事は他に見あたらない。子どもは大人を癒してくれる。子どもの発達や問題を正しく伝え、親が自分で子ども問題と直面し、それらの問題を解決しようと努力する。そのことで親が変わっていく。親が親らしくなっていく。そういったことを応援する手だては保育園にはたくさんあるのである。
一次的自我から社会的自我へ
心の安定した子は、知的好奇心をいっぱいに外界への興味を膨らます。遊びを通していろいろなことを学ぶ準備はできている。やがて、自分を中心とした世界から、仲間との遊びや活動を通して社会的な自我を形成していく。
3・4歳までは鬼ごっこは「鬼に捕まりにいってしまう鬼ごっこ」である。鬼ごっこのゲームより「自分と鬼」との関係を持ちたいからだ。それが5歳になると、「最後まで逃げ延びようとする鬼ごっこ」になる。まだまだ自分を中心に考える世代である。自分と鬼との関わりに対する強い欲求が前面に出てしまう。しかしその欲求を越えて、鬼ごっこのルールに従った方がさらに大きな喜びを与えてくれることを知る。そういった社会的自我が形成されてくる。
自分で考え自分で判断する力を育てる
世界は非常に激しい勢いで進んでいる。インターネットに代表されるように人々は情報の洪水にみまわれている。反乱する邪悪な情報から身を守り、何が自分にとって大切な情報かを自分で考え、自分で判断する力を養わなくてはならない。
私は、これからの子どもに必要とされる能力として次の3つがあげられると思う。

  1. 問題解決能力
  2. コミュニケーション能力
  3. 判断力

である。
 
保育園や幼稚園はそういった能力を非常に効果的に教育できるのである。少なくとも私は自分の園でそのことを実践しているつもりだ。自分たちで開発を進めている「総合保育」には保育士が自ら考え、自ら創造する力が要求される。年間の計画を立てることも簡単にはできない。しかし、それを現場のレベルでできるようにと施設内での教育システムを作り上げてきた。私たちは自分の仕事に責任を持とうとしている。その気持ちが自分の仕事に生き甲斐を与えてくれるのだ。

集団ならではの遊びや活動

遊びを通しての集団ならではの活動はとても大切な意味を持っている。「一人ひとりを大切にする」と新保育指針は強調しているが、それは基本の基本である。しかし、「一人ひとり」だけではだめである。その「一人ひとり」が意味をもった集団になることが大切なのである。自分を確立し、集団との関わりを楽しめる子どもが育たなくてはいけない。そういった教育ができる施設として保育園は機能しなくてはならない。それが保育園・幼稚園の本来の役割ではないだろうか。行政の要請による特別事業が多すぎて、本来の仕事ができなくなった。

保育園の教育的な活動が消えていく

子どもたちの心の空洞化、親たちの問題によって時間が割かれ、保育園の教育的取り組みに対する力と時間が削がれている。それではいけないのである。
現在、保育園には170万人以上。幼稚園も同じく170万人を越える子どもたちが通っている。これらの子どもたちの教育が、この国の運命を背負っているといっても大げさなことではない。
 
保育現場は保育の現状を、経済的な視点しか持たない保育行政担当官や企業のトップ・政治家の人たちに強く訴えていかなくてはならない。保育経営者も足元を見る必要がある。経営だけをよりどころにした保育経営はきっと行き詰まる。親だけに特権を与えるような行政の施策は現場を混乱におとしめる。
そして、行政は自分たちの施策が誤った社会を形作っていってしまうことを強く認識しなくてはならない。単なるサービスのつもりが、とんでもない混乱を社会にもたらす。このことを肝に銘ずるべきである。
 

第7章 解決への糸口を求めて

21世紀のこの年に厚生省と労働省は一体となって、厚生労働省となった。これが意味するところは大きいと思う。新エンゼルプランでさえ、働く親の労働時間の短縮はお茶を濁す程度に記述されただけで、具体的な施策は皆無に等しかった。これが一緒になったのだから、うまく機能してもらいたいものだ。
 
キーワードは「満2歳までの育児休暇の完全実施」と「子育て中の親の労働時間の短縮」である。これなくして、日本の社会は救われない。なにしろ、家庭が成り立つ時間がない。経済優先主義では社会が壊れる。デンマークでは子ども問題から親の働き方やや社会のあり方を問い直した。1985年からの取り組みに自分たちの人生にたいする真剣な姿勢が伺われる。これについてのリポートは「働くことも子育ても」で明星大学教授・岩上真珠先生の「EUの子育て支援政策?子どものニーズをめぐる親と社会の責任」で紹介した 。
デンマークでは会社は4時に閉まるらしい。午後5時には保育園から全ての子どもはいなくなり、夕方の家族そろった楽しい時間を持てるようにしたと聞く。ある日本の保育関係の学者が、「保育園でもっと預かって欲しいという親からの要求はないのですか?」とデンマークの保育士に質問したところ、「子どもに残業させる気ですか?」と返されたそうである。
オランダでは1.5稼働政策を実行した。人間の社会を考え、人々が暮らしよいシステムを作っている。日本はこれらに学ぶべきである。学ぶべき先はアメリカではない。
家庭保育ネットワーク・エスクの名木純子代表は「子どもは明るいうちに家に帰るべきだ」と断言する。「地域に子どもが溢れないと地縁が育たない」と主張する。エスクの仕事はここではふれないが、その活動の素晴らしさには心底から心を打たれる。
その考えは国を動かし、ファミリーサポートセンターなるものに踏襲されたと聞く。しかし、名木氏は国の制度とエスクとは「基本的に心構えが違う」と言い切る。
日本を救おうとしている人は、いろいろなところで、自分の力を発揮している。行政がやらないのなら、自分でやるという意気込みである。
 
子どもは私たちの未来である。その未来を育て作り上げる営みである保育を「便利屋」や「コンビニ」「駅型小荷物預かり所」のような仕事にしてはいけない。
 
最後に繰り返す。行政の施策は社会を形作ってしまう。だからこそ、その責任を強く感じて欲しい。現場を知っている人たちは声を大にして現場の状況を政策担当者や政治家に伝えていかなくてはならない。なぜなら、現場感覚が唯一現状を認識し、解決の糸口を探り出せるからだ。
現場の人たちは保育団体を動かさなくてはならない。保育団体の長は行政の意向に従うだけではいけない。現場の状況を正確に行政に伝え、そしてそれを政策に繁栄してもらえるよう訴えていく責任を負う。それでこそ保育団体を代表する存在価値がある。そうでなくては、この日本は危ない。
 

おわりに

この図の説明をしていくと、最終的には、これは政治問題であるとつくづく実感する。保育園に勤める一職員がいくら叫んでみたところで始まらない。また、一部の行政担当部門が努力したところで解決できるような問題ではない。
政治が混迷している現在、希望の光はなかなか見えてこない。しかし、地方自治法や行政手続法の改正、そして情報公開法などの成立で新しい局面を迎えるかもしれない。そのような市民としての権利を十分使いこなしていくことが日本を真に民主的な国として、そして世界にも十分通用する力をもった国として育てていくのではないだろうか。日本は素晴らしい文化と教養を備えた国である。その国を大切にしていきたい。そういった願いをもちながら、この連載を閉じることにする。
 
 

社会福祉法人同志舎 共励こども園
理事長 長田安司
 
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