今こそ"手塩"にかけた子育てを!
育児の社会化が揺るがす家族の絆
江戸川二葉幼稚園園長 菅原久子
新聞、テレビで子どもの事件が報道されない日はなく、今や日本の津々浦々、子どもを巡るあるいは子どもの起こす事件や問題が続発している。親による幼児虐待、いじめ、校内暴力、不登校、そしてますます凶悪化・凶暴化する青少年による暴力犯罪の数々。子どもの数は80年代から減少の一途を辿り過去最低を更新しているにもかかわらず、少年犯罪は増加し、不登校の生徒数も過去最高の記録を更新したと発表された。学級崩壊現象はすでに中学や小学校高学年のクラスばかりでなく、低学年にまで広がり、とうとう「入学式さえできない」「席について座っていることができない」など「小一問題」が危惧されるところまで拡大している。そして今や、授業中に経ち歩く、ふいと教室から出ていってしまう、大声を出す、周囲の子どもの筆記具などをとって邪魔をする、暴力を振るう、などは日常茶飯事になってしまっている。
「小一問題」から「三歳児崩壊」へ
「小一問題」として憂慮される事態が展開する数年前から、「一年生が幼くなった」と低学年を担当する教師たちの間で悲鳴が上がり始めていた。一年生の学級崩壊の礼としては、最近NHKが大阪の学校のケースを紹介していたが、その中では机の上を渡り歩くなど到底授業時間とは思えない、本来なら休み時間でさえ起こり得ないような無法地帯化した状態が映し出されていた。授業中に坐っていられず教室を飛び出した子を追う教師。そしてやっとつかまってその教師に抱きしめられ、抱かれて一対一でじっくりとなだめてもらってから教室に戻る男の子。三歳児以下の姿だ。
今、小学校に入学する子どもは、ほとんど全てその前に二、三年の幼稚園か、あるいはもっと早い段階から長い時間にわたって保育所での集団生活を経験している。有識者の中には教育要領とのかかわりから「自由保育」がいけない、「好き勝手にさせておくからこうなるのだ」と指摘する声もある。確かに弱肉強食のような放任を「自由」と勘違いしている施設もあるし、それとは対照的に子どもをがんじがらめにして訓練につぐ訓練を強いる強制収容所のような施設もあるので、そのような見解が出てくるのもやむを得ないことかとは思うが、本来極めて秩序感のある「自由保育」が問題なのではない。
子どもは幼児期を幼児らしくたっぷりと遊び、その遊びを通して小学校生活に適応できるだけの言葉の力や集中力、耐性を自然に養っていく。「小一問題」とは、それが育ち足りないままだったということである。
しかし、最近では幼稚園に入園してくる三歳児が年々幼くなり、おむつをつけたまま入園するという自体まで起きている。またそれだけでなく、ことばの発達が極端に遅かったり、人と関わることのできない子も少なくないのが現状だ。とうとう幼稚園や保育所の現場からは、「三歳児崩壊」という言葉まで囁かれるに至っている。小さければ小さいほど、月齢で子どもの育ちは格段に違うが、三歳の誕生日が来ても、まだおむつを着けたままなのが自然な状態だとは到底思えない。ことばの発達にも早い遅いに個人差はあるが、意志の疎通ができないとなると、やはり問題の根は深く大きいと言わざるを得ない。
何よりも気がかりなのは、「目を合わせられない子が増えてきている」という事実である。こういう子に限って、たまたま通り掛かっただけの別の子に突然砂をかけるなど、コントロールのきかない衝動性や激しい攻撃性、また片時もじっとしていられない多動性を併せ持っていることが多い。「それが欲しい」と思ったらそのモノしか眼中になく、やにわに奪い取るなど、他者が目に入らず、また他者と気持ちが通じ合わない。このような子の場合、抱っこをしようにも、棒のように身体を突っ張ってしまい、身をゆだねるということがない。こうしたタイプの子が暴れ回り、突然噛みついてきたりしたら、お話を聞く楽しいひとときも、砂場での遊びも、いつ何が起こるか分からない恐怖に満ちたものとなってしまうことだろう。
ふつう三歳児の描く絵はじゃがいもに目鼻をつけたような「頭足人」と呼ばれる愛らしいものだ。ところが最近では、いわゆる「なぐり描き」というもっと前の段階のものが多くなった。絵には、子どもの精神発達の段階が如実に表れる。だとすれば、「三歳児崩壊」とは、三歳までに育つべきものが育っていないことだ、と言えるのではないだろうか。三歳までに育っているはずのものが育っていない。一体その原因は何なのだろうか。
手塩にかけた乳児期こそが実りをもたらす
「這えば立て、立てば歩めの親心」という。首の据わらない子が立つことは決してない。子どもの育ちには、前の段階を土台として、その上に次の段階の能力が育つという、当たり前の順序性がある。前の段階を土台とすることなしに、その先の発達はない。生まれてくる赤ん坊には、特別な事情がない限り段階を追って順次発達を遂げていくような見事なプログラムがすでに組み込まれている。そして母親にも出産前から出産後へと、乳児としてのかかわりを通して、母性が豊かに発現するよう母性性がプログラムされているものだ。
例えば赤ちゃんの泣き声を聞くと、母親はいても立ってもいられなくなり、お乳が張ってくる。母とじっと目を見交わし乳首を口に含んだ赤ちゃんは、ちょっと吸うのを休んでは、ニッコリと天使のように微笑む。母は、その微笑にこの上ない幸せを感じ、ますます赤ちゃんをかわいいと思うようになる。そして泣き声の意味が、空腹なのか、おむつなのか、声で判断でき的確に対応できるようになる。こうして子どものリズムやペースがつかめてきて、子育てがよりスムーズになってゆく。眠くてむずかっている時には、子守歌を口ずさみながら抱いてトントンしたり優しく揺すったりしていると、赤ちゃんは母の声に包まれて安心して眠ることができる。これは赤ちゃんにとって「自分は大事にされている」という原信頼が育つ重要なひとときであり、これを通して安定した人格が育つ。
「育てよう」と大人の側が意気込まなくても、赤ちゃん一人ひとりが発達のプログラムを自然に持っており、母親はそれに的確に応答してゆけばよい。「飲んで、出して、寝て」を繰り返しながら、子どもは日に日に育ってゆくものなのだ。まだふにゃふにゃでいかにも頼りない生まれたばかりの赤ん坊は、何も知覚していないようにも見えるが、実は爆発的な成長力を秘め、五感を通して脳細胞が絡み合い、生後六ヶ月で脳は二倍の重さまでに成長するのである。しかし、こうした親子のやり取りを通して育つ「自然な育ち」が、いつごろからか阻害され始めた。乳児期に育つべきものが育っていないのだ。つまり子どもが育ち、母親も育つ自然のメカニズムが崩れてきているのである。学校崩壊、小一問題、三歳児崩壊の原因はまさにここにあるのではないだろうか。
急増する「愛せない症候群」
落ち着きなく走り回る、目についてものは何でも、そのモノだけに目が行き持ち主には関係なくさっと奪い取ってしまう。遊びの仲立ちをしようにも、決して目を合わせることが出来ず、砂をかけられた子が泣いていようと、噛まれて痛がっていようと、他の子の存在は全く目に入らず、喜怒哀楽の表情がない。そのような子の母親の多くが、「自分の子どもが分からない」と言い、わが子との心の疎通がないか、極めて薄い場合が多い。
母親の中には、自分の子を「愛せない」と心の内を明かす人もおり、その「愛せない」自分との葛藤に悩んでいる人も少なくない。この「愛せない症候群」から、わが子の虐待に走るケースも目立つ。「産後、自分の体調が良くなくて、ずっと子どもは病院に預けていたからでしょうか。この子をかわいいと思えない」と淡々と話し、呼びかけに応じることなく走っていくわが子を、後ろから追いかけるでもなく力なく「仕方がない」と自嘲気味に見送る母親。「帝王切開だったので、『お子さんですよ『』と言われても、実感が沸かなくてそのまま来てしまいました。」という母は、わが子がいけないことをしても叱ることができない。叱ったらそれまでで、プツンとこの子は切れてしまいそうだと嘆くのだ。
わが子との心の距離が離れていて、心の疎通ができないのである。対応がぎこちなく、よそよそしい親子関係になってしまっている。テレビ、ビデオ、パソコンなど便利な電子機器が普及するにつれ、人と人との間の絆が薄れ、テレビは母と子の間をも引き裂いている。テレビを見ながら哺乳瓶を赤ん坊の口に突っ込んでいるだけの母と、静かな室内でじっと我が子と目と目を見交わしながら乳を飲ませている母とでは、心の疎通は格段の違いがあろう。時間割で一日に数回与えるミルクと、欲しがるたびに与えなくてはならない腹持ちのよくない母乳とでは、これも母と子の距離に違いが出来る。さらに何回分ものオシッコを吸収するという紙オムツで“まだ大丈夫”と放っておかれるのと、する度に取り替えなくてはならない布おむつとでは、接触する回数は格段に違う。「あー、いい気持ち」と言葉をかけながら世話をする母と、世話を受けながら体全体で喜びを表す赤ん坊。こうしたやりとりから心と言葉が育ち、人とのかかわりが育っていく。
本来、子どもとのやりとりから親も学び工夫し、忙しくとも子の反応が楽しく可愛く夢中になっているうちに、いつの間にか子が育ち、親も親に育っていくのである。けれども、テレビに吸い込まれていればソッとしておき、寝ていればソッと寝かしておきたいのが人情で、便利なもののお陰で親と子の間の距離はグングン離れ、絆が細くなってしまうのだ。オフィスでの仕事は、このキイを押せばこう、とマニュアル通りにやっていればよかった。しかし赤ん坊はその手は通じない。さまざまな子育ての情報誌は出ていても、それは必ずしもその子にその通り当てはまるとは限らない。いや、当てはまらないのが普通であろう。一人ひとり違うはずだから。何ヶ月だから何CCとマニュアル通りに飲む子ばかりではないのだ。離乳食もマニュアル通りやってみたところで、子がその通りに喜んで食べるとは限らない。子どもをマニュアルに合わせようとし、思い通りにならない子にイライラし、切れて「こんなはずじゃない」と子への距離感、拒絶感はますます強くなってしまう。
本来一番近い存在であり、特にその書記には文字通り一体だった母子間が、いつのまにか距離感のある通り存在になってしまい、赤ん坊に振れないという親まで出現している。親子の間でコミュニケーションがとれないとなれば、どうして他者とコミュニケートできるだろうか。「可愛くて可愛くて」という親の思いと、「この人さえ居てくれれば」という子の親への愛着と信頼、こうした双方向の愛し愛され信頼されているという実感・基本的信頼を元に、乳児はことばで人とコミュニケートし共感できる幼児期へと育つことが出来るのである。その基盤となる基本的信頼が育たないままだと、次の段階へとコマを進めることが出来ず、その欠陥がいろいろな形で子どもの発達を妨げてしまうのである。
母性性を麻痺させてしまう仕組み
我が子を愛せない母も、かわいいと思えないと悩む母も、彼女たちが悪いわけではない。日本では、システムとして「子捨て」「子殺し」を進める方向に全てが猛烈な勢いで突き進んでいるからである。それが、「お金になる」という経済大国らしい論理から。経済発展華やかなりし頃、すでに出産は病院でするものとなっていて、しかも生まれたばかりの赤ん坊は、新生児室で清潔に管理されるのが主流となっていた。その方が管理しやすいから、という理由で。そして確かに乳児死亡率を下げた功績は大きい。だが、この近代的なシステムは確実に「大事なもの」を置き去りにしてしまった。いつその時がくるか分からない出産は、医療従事者の勤務時間から、自然に任せておいたのでは採算が合わなかった。そして便利な薬の登場で陣痛を起こすことができるようになると、平日の昼間の勤務時間帯に調整してしまうことが、むしろ当然となった。
このようにさまざまな医療的な投薬や処置が過剰に施されるようになったのだが、麻酔などは胎児への影響も与えないはずはない。出生直後の新生児は「新生児覚醒」と言われる、本来極めて意識のはっきりした状態にあり、それは母子がじっと見つめ合い、目と目を見交わす対面のための摂理かと思える二時間なのだが、その至福の「母子対面」を果たせないまま赤ん坊は新生児室に移される。「医療行為としての出産」を終えて肉体的に深い傷を負い疲れ切った母親は、しかも生まれたばかりの自分の赤ちゃんをチラと見せられただけで起きあがる力もなく、赤ん坊と離ればなれに過ごすこととなる。新生児室の赤ん坊は、いかに母を求めて泣いても応えてもらえることはなく、やがて「あきらめる」ということを学ぶ。そしてお母さんのおっぱいではなく、ゴムの乳首からどくどく出てくるミルクに馴染む。そうなってしまった子は、母親の吸いにくいおっぱいを努力してまで飲まなくなり、母乳を飲んでくれないからミルクを足し、ミルクで満腹になればさらに母乳を吸う努力をしない、という悪循環に陥る。また始めから紙オムツをつけ、濡れたから替えるのではなく、病院の予定表によって時間で替えてもらうだけの生活に慣らされる。元気に生まれたとしても、もし過剰な医療が施され、母子別室でミルクを使ってしまうとしたら、もうこれだけで母子の間に大きな距離が開いてしまう。まして、もし保育器に入らなければならないとしたら、子の孤独感は想像以上のものがあろう。保育器の中の赤ちゃんが、抱き上げても決して目を合わせようとしない事実を、産科医の大野明子氏は「子どもはまた、すっと顔をそらし、決して目合わせをしようとしないのです。保育器にたった二日間しか入っていない子も、二ヶ月入っていた子も、皆同じでした。目を合わせないのは、はっきりした子どもの意志でした」と期している(『分娩台よ、さようなら』)。
濡れたらすぐ替える必要のある布おむつの時代、赤ん坊は空腹→泣く→おっぱい→おしっこ→おむつ、と一日に何回となく母親の胸に抱かれ、抱かれてはジッと母の目を見つめ、母もおっぱいを吸われる度に母性性が高められ、愛しいと思う想いが強くなり、愛着と絆を形成していたのである。しかし、濡れてもサラッとしていて数回分は大丈夫という紙オムツ、そして腹持ちのよいミルク全盛の便利で効率的な社会では、随分と趣の違ったクールな親子関係になってしまうのではないか。このように親子が触れ合う機会がグーンと減ってしまっているシステム下では、可愛いと思えない母だけを責めるわけにはゆかないのだ。
子捨てを奨励する小泉改革の少子化対策
小泉政権の構造改革・規制緩和を受けて、「待機児童の解消」と銘打って、企業参入の保育所づくりが盛んである。これは「男女共同参画社会の実現」という聞こえのよいモットーと相俟って大変な追い風を受けている。東京都では従来の保育所設置の基準を大幅に緩和し、株式会社が保育所を経営するようになってきた。つまり、利益の対象として保育事業を展開するというわけである。預けやすいように駅前で、しかも一人当たりの設置基準も認可保育所の3.3平方メートル以上から、2.5平方メートル以上へ大幅に基準を緩めた。職員についても、正規の職員も保育士も六割いればOK、開所時間も基本が13時間と、認可保育所の11時間より2時間長くなる。これはどういうことを意味するのか。子どもたちの遊びの場や質、また育ちの環境などを一切考慮することなく、預ける側の都合を営利性のみを追求し、子ども不在の保育行政がまかり通っているということだ。保育所は本来、預ける親だけではなく、「子どものための」施設であるべきで、認可基準とは子どもの発達保証の面から最低基準として定められていたはずなのだが、子どもの発達については完全に無視されているようだ。産休明けから、もし13時間もの託児がなされるとしたら、その子にとって家庭は一体どこで、一体親は誰なのか。そんなことも考えられない愚かな官僚達が「亡国の保育行政」を司っている。良心的な保育所では、母に変わる養育者として最大限の配慮をし、安定的に一人の保育士が子どもにかかわるようにして家庭生活に近づけようと努力をしているが、それとて勤務時間内のことである。しかも子どもが生涯をその保育所でその保育士と暮らすわけではないのだ。
前述した「愛せない症候群」の母親達、子どもといることが負担となっている親たちにとっては、離乳食もトイレット・トレーニングも全部お任せの施設保育へのニーズは少なくないであろう。また子どもを預けパートに出る女性が増えることは「安い労働力」としての女性を確保したい企業にとってはまさに願ったりに違いない。こうして子どもをどんどん預け、女性がどんどん働きに出ることを、過激なフェミニストたちも大歓迎だろう。
しかし、その結果残されるものは何なのだろうか。忘れてならないのは、これらの施策の全てが、親と子の距離を限りなく遠くバラバラに引き離してしまうということだ。家庭を崩壊させてしまうということだ。そしてそれは後に、とんでもないツケとして社会に跳ね返ってくる。目を合わせない子どもは、それは子どもの怒りと悲しみの意志表示であったことを思い出して欲しい。現在行政が熱心に進めている「子育て支援」「ファミリーサポート」、そして認証保育所などは全て、家庭を崩壊せしめ、精神的孤児を生み出す元凶となり得る危険極まりない政策だ。そして小泉政権の進める「男女共同参画社会」とは、子どもを犠牲にし、家庭を崩壊することで成り立つものなのだ。
子どもに生きる歓びを
それでは一体どうしたらいいのか。日本の取るべき道を考える上で、あるオランダ人教師の話を紹介したい。
先日欧米の国々から日本への教育視察団が来日していた。その代表団の一員だった女性のオランダ人教師と、たった一日ではあったが貴重なフリータイムを同道した。二週間にわたる視察旅行に参加したこの女性はオランダからの唯一人の代表者だった。一国を代表して二週間も参加してくるのだから、当然独身のキャリアウーマンなのだろう、と私は勝手に想像していた。
ところが、彼女は「泣く泣く来たのよ」と言い、私は耳を疑った。ご夫君と二人の息子さんをおいて日本に来るのが辛くて、「涙、涙で来た」と語った。子どもたちの声を聞くと直ぐにでも飛んで帰りたくなるから、電話はかけず、毎日ファックスで手紙を送っているという。上の子が十二歳、下の子が六歳で、彼女は上の子の出産を機に退職し、下の子が四歳になってからまた教師に復職したのだそうだ。今の職場は子どもたちが通う小学校(幼稚園はその中に組み込まれている)だという。つまり十年間の子育てのブランクの後、現在二年目の教師というわけだ。それだけで、まず私たちの国だったら、海外視察団の代表になれるだろうか。それを思うと彼我の違いは歴然としている。
上の子の出産を機に退職し子育てに専念した彼女は、その後、下の子の出産にさいしても、「上の子に寂しい思いをさせないで、日常生活をそのまま遅れるように」との思いから、「自宅出産を選んだ」と当たり前のように語った。「その日も、その時(陣痛)が車では、夫と庭の手入れをしていたのだけれど、その時が来て、二階に上がって生んだの。だから子どもにも寂しい思いをさせることなく、いつものような日常生活を送ることができた」と力強く話す。夫婦が一致協力して「家庭」をつくり、子どもを育てていく、それを本当に楽しみ愛おしんでいる。調べてみると、オランダでは自宅出産が普通で、およそ二人に一人が病院ではなく自宅で出産している。日本もかつては家庭にお産婆さんが来て出産するのが普通であったが、オランダでは現在でもこうした制度が残り、しかも万が一の時の医療施設との連携体制も見事に整い、安心して自宅出産が出来る体制が整っているという。このオランダ人教師は、「病院での出産は医療になってしまい、一つ薬を使うと、それは一つでは済まない。必ずその影響で次の薬が使われ、自然に子どもを出産するのとは全く違ったものになる」と強調していた。それは最近の我が国の幼児虐待や自分の子なのに「愛せない症候群」の母親達に共通する産科医療の現状を鋭く突いている事実ではないだろうか。
「世界中のどこの国であろうと、生まれてくる子どもに最大限の努力を払って最善を尽くすのは同じでしょう」「子育ては15年後を考えなくては・・・、愛されなければ子どもはダメになる」と力説する彼女と、私は言葉の壁を超えて共鳴し合った。
翻って、日本の保育行政はすでに見たとおり、「手塩にかける」どころか、ゼロ歳児からの長期間にわたる長時間の親子離ればなれの生活を進めるものだ。人間的な視点から見れば、これがいかに人間性の破壊につながるかは火を見るより明らかであろう。彼女が来日している間は、ご夫君が休暇をとり子どもたちを見ているとのことであった。これこそ本物の男女共同参画社会というものではないだろうか。オランダではこうして本当に家庭生活を大事にしているから、大都市に世界中から麻薬常習者たちが集まってきても、何ら影響を受けない堅実な市民生活が保たれているのであろう。私自身、今春オランダの小学校を視察したが、どの学年も極めて穏やかに和やかに学習生活が保たれていたことに大きな感銘を受けた。
オランダでは昨今パートタイム労働が大幅に導入され、男性も女性もパートタイムで働く人が増えているという。日本と違い、この国ではパートタイム労働でもフルタイムと同様の社会保障を受けられる体制が整っている。それによりフルタイムとパートタイム、パートとパート、夫婦2人合わせて2の収入ではなく、1.5の収入を稼げばいいではないか、という「1.5稼働」が普通になっている。ここで見逃してはならないのは、この「1.5稼働」の普及により、夫婦が友に働くと同時に、二人がともに子育てに参加し、家族みんなが一緒に過ごす時間が増えたという事実である。
真の男女共同参画社会の実現とは何か。家庭を守り、家族の絆を強めることを核として考えたとき、このオランダの例は多いに参考になるのではないだろうか。
求められる真の子育て支援
目を合わせようとしない子どもたちの拒絶感、それでも頼りたい、頼らないでは済まない孤独感。信頼と不信の間を揺れ動く子どもたち。目を合わせないのは、すでにこの世に産声を上げた時から求める愛を拒絶され、あきらめ、絶望してきたことに対する、子どもたちの必死の訴えなのではないか。母の暖かい胸を求めている時に答えてもらえない新生児室から始まり、粉ミルクに紙オムツ・・・その上、働くのに邪魔なので、と産休明けからの長期間にわたる長時間保育・・・
こうした便利で能率的なシステムのハイテク社会は、しかし、人間が人間らしく育つという極めてローテクな営みには合わない。
もし、この負の要因が拭われることなく、拒絶の連鎖がつながっていったとしたら、その子どもが社会に牙を剥いたとしてそれを避難することができるだろうか。親と子が共に幸せな家庭生活を築くことを保証する真の子育て支援、例えば養育手当や子育て減税、住宅補助、それに過剰な医療行為を控え、自然に赤ちゃんを迎える体制の確立こそが急務なのだ。経済至上、効率至上ではなく、家族揃って夕食を囲むことが出来るような、家庭と子育てに人間性を回復する思い切ったルネッサンスが、今、求められている。


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